Monday, June 23, 2014

ロハスの広まり

ロハスと云うことばが世に広まり始めてからまだ15年も経過していない。しかも、そのわずか数年の間に、 日本国民の7割以上がロハスと云うコトバを認知するレベルに至っていると云う調査もある。驚くべきことだ。正式な定義などを理解していなくとも、ロハスが自己健康管理や地球環境、精神的な癒しなどが含まれていることがこうも早く日本で認知されるようになったのはどのような理由からなのだろうか?もちろん、媒体、あるいは一部の広告代理店、商魂逞しい企業あるいはトレンド・ウォッチャーなどが、いち早くロハスを取り上げて、その普及に邁進した背景もあると思うが、それだけでこのコンセプトがこのように早く広まったとは考えにくい。早く広まった背景には、それを受け入れる土壌が出来ていたと見るべきだろう。


一つの考えは、国民の潜在意識の中に、社会のテンポが急激に加速度化していることで、その急速な変化に対応する心のゆとりが少なくなり、個人的や地球的な規模でそれを軌道修正しようとする精神が働いて、この何となくやさしい響きのコンセプトを受け入れているのかも知れない。スピーディー過ぎる社会変革への反動としてスローに戻りたいと云う気持ちの現れだったとも考えられる。
もう一つは、人間の生活の豊かさに大いに貢献してきた科学の進歩が、崩れ始めている自然界の均衡を必ずしも防ぎきれていないと云う焦燥感から発生している面もあると思う。科学は、生産性を高め、人間の物質的な豊かさを大いにもたらしたのは確かだが、科学者は、自分の技術分野には目を向けることはあっても、統合的な視点が欠けてしまうことも時によってはあるからだ。科学の発展は多くの場合、懸案となっている問題解決はできたとしても、それによって逆に自然界の微妙なバランスを予期しない方向で崩れさせることがあるからである。もちろん、ここでは科学の発展をけなすつもりは無い。純真な意図で作られたものが、政治やビジネスの世界などで悪用された事例があまりにも多いからだ。良心的な科学者の悩みはそこにあるだろう。
いずれにしても、これから見ていくように、ロハスと云う概念は、突然に現れたコンセプトではなく、また、経済思想でも哲学的な概念でもないことだけは言える。カルチュラル・クリエーティブ(文化的な創造者たち)あるいはロハスと云う言葉を作り上げたのはポール・レイ博士とシェリー・アンダーソン博士の二人が、「社会学的」統計手法で、アメリカの消費市場全般を研究した上で、消費市場のクラスターやトレンドを健康や地球環境保全に関わるような消費行動カテゴリーとして拾い出し、彼らの手法でいわゆる「カルチュラル・クリエーティブ」「ロハス」市場規模を推測したものなのである。

アメリカに目を向けるとこのロハスと云う概念を知っている人は、ナチュラル産業に携わっているごく一部の人しか知らないと見るべきだろう。だから、日本人がアメリカ人に対して「ロハス」「ロハス」と言うときに彼らも少し認識のギャップを感じるに違いない。しかし、アメリカ人がロハスと云うコトバを知らずとも、アメリカがロハスを実践していないと云う意味ではない。アメリカでは、ロハスと云うコトバのくくりは無くとも、「グリーン」や「サステイナブル」あるいは多くあるその他の表現で、ロハスに内含されるような意識をすでに持ってきているからだ。
ロハスはトレンドや一時的な流行ではなく、着実にメインストリーム、つまり主流の時代思想になりつつある。これまで、グリーンやサステイナブル、あるいはリサイクル、代替エネルギー、補完(代替)医療などといった考えはどうしても知識人リベラル派の夢物語だったものが、今では実行しなければならない正当な考えとして受け入れられるようになっている。この変化の持っているインパクトは大きい。
ロハスはもはや表層的な変化ではなく、産業革命以来一途に邁進してきた産業の発展が大きな岐路にさしかかっていることを意味している。見方によれば、石炭、石油と云う炭素系エネルギーの時代が曲がり角に来ていることでもある。アメリカでは、いわゆる「ポスト・カーボン・ソサイエティ」と評されるものだ。だから、健康やサステイナビリティを超えたところの変化にもつながつがる。
こうなると、ライフスタイルを維持するのではなく、新たな時代の現実に適うライフスタイルの模索が始まっているといって良い。発展に対する願望は、当然発展途上国の中では未だに強く、ロ
ハスの潮流変化の中でも、新時代への抵抗を持つところも多い。世界の人々の生活水準を上げなければいけないと云う課題の中で、時代の変化に対応するためにも苦痛を多く伴うことも出てこよう。しかし、すでにいろいろな警鐘は鳴らされている。もうLOHAS 4.0は待ったなしの時代だ。

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