Monday, July 21, 2014

ベトナム反戦を契機に変化するアメリカ

アメリカでの社会的成功の尺度は、より大きな家、より大きなクルマ、そうして何よりも事業的な成功がモノを言った時代が長く続いた。私が70代の大学生時代に読みふけった大衆小説家のハロルド・ロビンズの多くの小説に共通しているテーマはビジネス・サクセス物語だった。私も英語的な表現で、Nothing succeeds more than successと云うコトバを習った。 成功することが最も素晴らしいと言ったところだろうか。その成功の尺度はカネであり、物質的なものを追い求めるアメリカンドリームだったのだ。
しかし、その夢物語も、60年代に入り、アメリカがソ連をはじめとした社会主義陣営との闘争の一環としてベトナムに参戦することによって、カーソン女史の環境問題以上に大きく社会へのインパクを与え始めていく。第二次世界大戦では物量作戦と科学によって大勝したアメリカではあったが、50年代初期の朝鮮動乱は東西冷戦と云う構図の中での一時的な不覚としても、東西冷戦構造が深まる60年代のベトナム参戦は、アメリカの若者の心に政府、権力や大企業への不信感を生ませることになる。徴兵制がしかれていた時代であったので、くじ運が悪い若者たちがベトナムに行くことになった。最初は社会主義陣営の拡大を阻むと云うアメリカの若者にとって正義の戦いだったものが、戦死傷者が続出するようになり、不毛な戦いに厭戦気分が強まっていった。
ここで不思議な現象が始まる。60年代後半からアメリカのリベラル的なUCバークレー大学やオハイオ州のケント州立大学などで反戦運動が起こり始め、鎮圧に走った当局との間で大きな衝突が繰り返されるようになる。アメリカンドリームを満喫していた若者たちは、社会的な緊張感の中で従来の価値観に共鳴をしなくなってくる人が増えた。この本ではロハスの源流を探っているので社会学的な解釈をするつもりは無いが、反体制的、あるいは反権力、反大企業の風土が出てきたことに留めておこう。特に大企業に不信感を抱き始めた若者たちの中でコミューンを形成する方向へ走ったり、ヒッピー運動を始めたり、反体制になったり、アメリカンドリームの成功法則に外れた人々が出たことに注目したい。後でもっと詳しく述べるが、マックドナルドなどのような事業とはかなり違ったナチュラル・ビジネスがこのような反体制の若者から創出されることになる。この人たちは、従来のアメリカ型成功方式を受け入れずに、自然との共生を求める動きに集約していくのだ。
私の住んでいるボールダーなどでその後、事業的に成功した人たちの中で有名になったのはハーブティーのアメリカ最大のメーカーになったセレッシャルシーズニングス社のモー・シーグル氏や豆腐王(豆乳も含む)になったスティーブ・ディモス氏などがいる。彼らはまさにヒッピーのような生活をして、アメリカ的事業精神に当てはまらず、新たなナチュラル・ビジネスを形成したパイオニアだ。もちろん、その当時は、彼らとて異端者の時代であり、境遇は苦しく、今の億万長者ぶりの生活からほど遠い生活を送っていたが、彼らが新たな方向に歩んだのは、ベトナム戦争と云う転換のきっかけがあったからに他ならない。

また、このようなベトナム戦争がきっかけと云う事態と同時に忘れてはならないのは、キリスト教の文化の中に、東洋思想が芽生えるきっかけも出ていたことを述べなければならない。元々キリスト教が成功法則を求めて、ビジネスに邁進していたと云うつもりは無い。しかし、キリスト教文化に代表されるのは、その当時は保守的な、体制側的宗教だったことには違いない。そんなことから反体制青年が抱えているいろいろな悩みの回答を引き出してくれる宗教に思えなかったことも事実だろう。当時のポップスターだったビートルズが、インドの瞑想を行なうなど、ヨギーたちに傾倒をしていったことで、彼らをアイドル視する若者たちも東洋的な思想にはまり込んでいった。
東洋の精神的な思想は、殺生を忌み嫌い、多くのアメリカの若者が菜食主義者になるきっかけも作った。前に紹介したディモス氏などが菜食主義者なのはこのような背景によるものだ。また、だからこそ、豆腐王などになる資格があるのだ。まさにマックドナルドのハンバーガー文化と全く相容れない思想が60年代の後半から強くなっていく。ナチュラル・フードのビジネスは極論をすれば東洋思想のインプットが無ければ成立しなかった面もあるし、出来たとしてもかなり違った性質のものになっていただろう。東洋の神秘性が求められていったのは、間接的なことかも知れないが、ベトナム参戦によってアメリカドリームがすべての人々の心に受け入れられなくなったことを示すと云える。
さらに、面白い現象としては、保守的なアメリカの価値観を先鋭的に主張するキリスト教原理主義の政治勢力も強まった反面、60年代や70年代の社会的混乱の中から対抗勢力としてのアジアの新たな文化的価値観、あるいは宗教的な考えもアメリカの主流とまではいかなくともロハスの源流として入っていったと思う。アメリカに70年代から、出たり入ったりを繰り返してきた私にとっても、アメリカの国民的な多文化を受け入れる精神風土は相当変わってきたのを常々感じてきた。その中でもアジアの文化が多方面から静かにアメリカ人に受け入れられるようになった訳だが、ミート・アンド・ポテトの食文化に中に寿司などのかなり異色な食事が流行ったり、禅、ヨガや霊気と云ったキリスト教文化が異端視したような文化も入ったりした。私は70年代からアメリカで合気道の指導を行なってきたが、そのすそ野の広がり方、一般的な理解の深さは日本人が想像する以上のところに来ている。アメリカン・ウェー・オブ・ライフが根本から変わったと云うのでは無いが、和を尊ぶ合気道が好まれるとか、太極拳など西洋思想から絶対発生しなかったようなものまでもが自然に受け入れられるようになっている。異端視されないようになったことが、文化の多様化を示すものと言えるだろう。



ロハスの思想が、アメリカだけの土着の思想では無く、東洋の思想と結びついていることが面白い。西洋の資本主義思想が、壁に突き当たり、そこで競争的な原理から、より和合の精神へと変わっていくことに、大きな変化を見出すことが出来る。私は80年代の初期に当時世界最大の自動車メーカーだったゼネラルモーターズ社に在籍していたときに、トヨタ自動車やスズキ自動車などと合弁交渉に携わったが、まさに巨大企業のゼネラルモーターズでさえ、アメリカンドリームの変化を感じ取り始めていたと言えまいか?アメリカのビジネス、商品モデルなどが消費者に受け入れられなくなっていた時代だ。

Friday, July 11, 2014

ロハスの源流を遡る(2)

当時のアメリカ人は、当然見えない社会問題を内包していた時だが、外向きにはきらびやかな姿が大いに映し出されていた時で、多くの中産階級のアメリカ人もアメリカの戦争での勝利は、科学力と産業力の勝利と考えていたと言える。軍事産業の要だった、毒ガス開発や武器用火薬の産業なども平和産業に移管し始め、除草剤、殺虫剤や化学肥料の平和産業に業態転換をして、戦後の経済発展の大きなシェアを大いに享受していた。
農業の機械化は19世紀から始まっていたが、第二次世界大戦終了を機に農業従事者も急激に減少し始め、農家の数が減少する中で、より集約的な大規模農法が盛んになった。殺虫剤、除草剤の空中散布や化学的肥料などの活用も高まり、アメリカの農業生産性も飛躍的に伸びた。集約をすること、生産性を上げることが善とされ、軍需産業の平和利用転換がうまく行き、これを疑う人はアメリカンドリームを否定するかのように見られていた時期だ。
しかし、順調なアメリカンドリームの推移のようであったが、徐々にアメリカ国内の見識のある人の中に、アメリカ経済の変化について疑問を呈する人々が徐々に出てくる。ここでは、すべての人々や事象を網羅することはしないが、代表的な事例などをいくつか取り上げていきたい。
そのひとりに、環境問題を未だかってない情熱で啓蒙活動をした人がいる。もともと海洋学者で、アメリカ連邦政府の漁業局で科学者として、そうして編集者として活躍したレイチェール・カーソンだ。彼女は公務の時の執筆はもとより、公務の研究成果をもとに私人としても博物学、自然科学に関する多くの啓蒙書を執筆した。高まる自然への愛情をより多く、深く表現するべく、カーソンは1952年に公務を辞め、執筆活動に専念し始める。

カーソン女史は、私たちが生きている自然界の不思議さと美を広めようと云うことで多くの著作を著した。カーソン女史の視点とは、人間がこの不思議であり美しい環境と一体であることを念頭においていたものだが、一方では人間の行動が、その自然界のバランスを崩すことが出来るネガティブな力を持ち合わせ持っていることにも大きな警戒感があった。しかも、人間の軽率な行動によって破壊された自然が修復・再生されないかも知れないと云う懸念を強く持ち始めていた。
アメリカンドリームでこの世の春を享受していたアメリカだが、カーソン女史の春は別物だった。博物学者として自然に近いところから接していたカーソンは、農業機械化の進展や殺虫剤やその他の薬剤が空中散布されることにより、多種多様な鳥が姿を無くしていくことに気がつく。もちろん、鳥たちの食べ物になる虫が居なくなることもそうだったが、殺虫剤を振りかけられた小鳥たちも大きな被害を受けたのであり、そのような状況を目にしたカーソン女史は、1962年に「沈黙の春」と云う本を著す。もちろん、「沈黙の春」と云う原題の意味するところは、鳥が少なくなって、春になっても鳥のさえずりが聞こえなくなったことへの抗議声明文だったとも言えるだろう。博物学者だった同女史の活動は、次第に農業化学者、化学品業界や政府への痛烈な批判に変わっていく。自然界をもてあそび、化学薬品でバランスを崩している人々との対立的な姿勢が強くなってしまったのは言うまでもない。
当然化学薬品業界はこぞってカーソン女史を批判した。政府関係者も彼女があまりにも人騒がせの性質であると見解に立ったが、彼女は勇気を振り絞り1963年にアメリカ議会の公聴会で自然環境と人間を守るように具体的な事例を多く挙げ証言した。そのカーソン女史は訪れようとしている死期を予期しての活動だったのだろうか。翌1964年に乳ガンとの闘病生活にやぶれ、彼女は亡くなった。カーソン女史が打ち放った警鐘は、多くの見識ある人々の心をとらえ、環境運動の一つの大きな柱になった。

しかし、実際カーソン女史の警鐘にも関わらず、その意見は主流のアメリカが取り上げるようなところまで行かなかった。アメリカの国土は広く、資源も豊富にあり、人々は勢いがついていた経済成長を引き続きサポートした。カーソン女史の発言は、もちろん環境派のバイブルのようになるが、物質的な豊かさを享受し始めた大方の国民の願望は、女史の心配をよそに物質主義まっしぐらの傾向を示した。2008年、アメリカはもとより、日本でも彼女の生誕100年行事を多くの人が祝ったことは、彼女の行なった活動が無駄になるどころか、現代のロハスに直結していることを物語るものである。