Tuesday, July 31, 2007

ブラジルの地球温暖化観に変化の兆し

世界の地球温暖化の原因を探っていくと先進工業国の経済活動が大きな原因となっていることは知られている。特にその中で、世界人口の5%前後しかないアメリカが、世界のエネルギー使用の25%にも及ぶことが知られれば知られるほど発展途上国は、自分の国の発展を抑制してまで地球温暖化の議論に乗らないように心がけてきたと言える。アメリカのライフスタイルは、無駄が多いことは知っていても、そのライフスタイルを求める世界的な基調はなくならないのだから、地球温暖化の議論はどうしても先進国のエゴにしか見えて来ない、あるいはある程度は地球温暖化の科学的な議論は分かるがそれでも発展したい自己矛盾などもあると云うのが、発展途上側の考えに違いない。

環境問題では至って先端的なボールダーの街にしても、近隣市をまじえた郡レベルで、新規住宅建設に関して建坪の制限をここ数ヶ月検討をしてきているが、カウンティーの政策はまだまとまったとは言えない。カウンティー側の視点としては、1家族が住む家の建坪として600平米を限界として、それ以上大きい住宅については、公共のオープンスペース購入のための税金を払うか、超省エネ住宅にするかなどを提案してきた。それに対する不動産業者や建設業者などは、年間に建設許可される件数がきわめて少ない新規大型住宅に課税や制限を設けるのは不公平であり、その他大勢の古い住宅のエネルギー効率を向上する方が、大きい意味での環境には良いと云う議論を展開している。双方の良い分は理解できるものの、ボールダー郊外では確かに800平米以上の家はいくつもあり、そのようなところの光熱費代を考えるとなぜそこまで大きい家を必要としているのか、それについては理解に苦しむことも多い。ボールダーでもそうなら、全米ではもっとひどいと云わざるを得ない。そのアメリカの無駄遣いの趨勢を多くの国々は見ているのだろう。

アメリカ人が所有するクルマにしても、まだ大型RVに依存している人が多いのにはびっくりする。中東依存を下げたいと言いながら、ライフスタイルの変更は、アメリカの権利として譲れないような姿勢をとる人も多い。もちろん、流れとしては省エネを目指さない訳ではないが、国家的な急務として取り上げていないのも事実であり、発展途上国から見たらアメリカの姿勢を疑うとしてもおかしなことではない。

発展途上国は、排ガス規制とか、その他の環境への配慮をするような余裕はないと云うところだろう。それぞれの国内政治でも、地球温暖化の問題よりも、より緊急度の高い問題が国民から上げられてくるだろうと云う意識は強い。しかも、ライフスタイルはアメリカの真似をしたいが、妬みとも言える反米感情があるのも事実だ。事実、アメリカは多大な農業補助金を国内の農業関係者に出しており、その政策のあおりで、各国の農産品がすんなりとアメリカに輸出できない貿易的な制約も存在しているのだ。ブラジルなどの砂糖や砂糖からできたエタノールの輸入を認めるのならまだしも、アメリカは、実質的には農業政策が、外交と重なるときにはブラジルにとってあまり面白くないことも多く発生しているのは事実だ。

そんな背景もあり、ブラジルのダ・シルバ大統領は、ことアメリカや先進国の地球温暖化抑制の話し合いに関しては、どうしても懐疑的だったし協力的でなかったのだ。経済的なナショナリズムが発生をすると云うのは当然のことだったかもしれない。この、ニューヨークタイムズ紙の記事は、ダ・シルバ大統領が、まだ懐疑的な姿勢を崩していないものの、地球温暖化による天候、気象現象の議論が遠い先の話だと思えなくなる事情がブラジルで既に発生してきていることを報道している。ブラジルではこれまで発生したことのない台風が起こったり、干ばつや異常気象が多く発生している模様だ。ダ・シルバ大統領は、アマゾンの乱開発について、欧米の有識者の指摘を無視してきた観があるが、ここへきて、自国の将来についてみ直し始めたと云うのが真実だろう。

各国のおかれている状況は、国内政治の状況を考えると一致団結してこの大きな地球温暖化の問題に取り組むような状況ではない。しかし、異常気象が、発生し始めるとなるとどうしても無視し得ない何か見えないモメンタムにつながっていることだけは間違いないだろう。地球温暖化だけでなく、地下水源の枯渇や表土流出による砂漠化の加速など、人間の奢りによる地球環境の変化は着実に見え始めている。発展途上国の発展する権利を認めてあげるような度量と先進国としては自国のライフスタイルの改善を行う勇気が必要なときに来たようだ。さて、日本の政治状況を見る限り、そのような地球的な問題を語るような土俵にはありそうもないようだ。日本の政治家に何処まで求めて良いものだろうか。100年の国家の計を語れるようなリーダーを求めてやまない。

Tuesday, July 10, 2007

食品の安全

ヒトの健康を考えるときに、重要な柱の一つが何を食べているかと云う点だ。最近の中国の食品の衛生が問題化され、中国品の輸入については政府当局だけでなく消費者の目も厳しくなってきている。しかし、中国品に限らず、食品について厳しい目を持つようになったからと云って、実際に食している食品が安全かどうかを理解している人は少ないに違いない。食品の安全については検査をしている衛生当局が把握しているだろうと多くの人が考えているから、その実態は見えなくとも、何となく安全だろうとの考えで終わっている。私もある程度そのように考えてきた。

企業や国が決めている食品の安全基準は、当然悪意をベースに設定されているものではないが、生産者の顔が見えなくなった現代の食品を何処まで信じて良いのか分からなくなってきているのも事実。実際、雪印の問題や不二家の問題についても、企業の問題処理のときの対応を見ていると、これも何処まで信じて良いのか不安がつのると云えまいか?企業の存続、利益確保の方が、消費者よりも大事だったと云うことが言えたのではないだろうか?そんな感じがしてならない。

食品の安全と云う意味では、多くのことが言えるだろう。単純なる衛生上の問題や、産地の偽りや、嘘の表記なども上げられるはずだ。しかし、今日写真とリンクで掲げているマイケル・ポーランのOmnivore's Dilemmaを読むとそのような偽りなどの前に、食品産業を超えた農業政策の問題から取り上げ、いかに今日の食卓が汚されているのかが分かる。この本を読むと、アメリカの農業政策について大きな懐疑を持ち始める。しかも、それが加工食品の形でどんどんと川下にも流れ始めることを考えると、このような基本的なところから問題を来しているのか不安と恐ろしさを味わってしまう。

ポーランはアメリカの食糧政策の根幹にある、トウモロコシと大豆の生産からまず切り込み始めて行く。そうしてそれが、家畜産業へとつながり、その他の青果物食料品といかにつながって行くのか、あるいは食品の加工品はどうなのか見事に淡々と書き記して行っている。彼の記述はジャーナリスティックなところがあるかもしれないが、オーガニックだから良いのではないと云う点まで掘り下げて行く。ホールフーズもウォールマートも、扱っている商品は少し違うかもしれないが、ポーランの分析では両方ともウォールストリートの奴隷との定義であると云うことになり、ホールフーズへの否定的な意見も多い。

私は、ロハスと云う概念から、ここまでアメリカは進展をしてきているのだと云う気持ちがしてならない。きれいごとのロハスではなくなっているのだ。食品を見るときに、見えないチャンネルの中での問題点を曝け出しているこの本のインパクトは大きい。日本でも農家は、農薬などを使わない食品を自分たちで食し、農薬品を使ったものを市場に出していると前から多くの人のコメントで聞いたことがある。実際はどうなのか分からないが、最終消費者との接点が無くなっている現在のディストリビューションだったらあり得ることかもしれない。このように中間業者が多くなってしまい、生産者と消費者が接点無くなっているところに大きな問題もあろう。しかも、国民を守るべき政府にしても、どうしても化学肥料や農薬全般、種のメーカーなどとの接点が強いことが多くあり、消費者がとかくすると忘れ去られてしまうことも多い。アメリカの巨大農業資本が見え隠れする中で書かれたこの本は恐ろしいし、ある意味では理想の実例も書いてくれているので、食品について実に新たな視点で物事を見るようになってきた。自分のロハス度はさらに高まっていると言えるかもしれない。この本の和訳が出されることを願っている。著者は加州大バークレー校の先生だ。